「妻や息子たちとも言っとったですよ。うちのなんかで良いのか、って。」
平川さんの口から謙虚過ぎな言葉が出て、少し驚いた。
広い広いリビングで、ふかふかのソファも対面であるのに、そこには座らず、床の上に座っている。
飾らないお人柄なのかもしれない。
永田照喜治も大好きだったという平川さんのスイカ。
曰く「香りが良いんだよね。」と生前お話ししていて、渡部さんに頼んでよく送ってもらっていたのだそう。
「今年だけだよな?単発の。」と数年前に、私からお願いした時には思ったそうだ。
「でも、なんか毎年、『今年も?』と思いながら…。」
同じ島原半島でも、布津(ふつ)は砂壌土。
水はけが良いが、土壌が少し硬めだと言う。
だから、土から下のものは、あまりよく育たない。
ごぼうなど育てようものなら、五つ股に分かれて、上部20㎝ほどしか掘りあげられないのだとか。
だから、現在は、ブロッコリー、白菜、スイカが主力。
玉ねぎも少し育てているようだ。
「それこそ親父の代でスイカを始めた時には、8軒の農家がいてね。
出荷組合も組織して、4月から6月までね、出荷してました。」
「栽培して、何年になるんですか?」
「高校の時にはスイカを運んでたからね、50年以上になるな。」
スイカを放り投げるような仕草をして、そう仰った。
様々な理由で、1軒、また1軒と減り、現在、布津でも、スイカを栽培するのは3軒のみ。
関東にはりょくけんを除いて出荷していない。
前作の、白菜が終了してから徐々にスイカの定植を始める。
以前は2月から定植を始め、4月から出荷できたが、2月は寒いため、受粉を助ける蜂が動かない。
花粉を取り、一つ一つ花に付ける作業は、人間ではかなり大変。
今は5月末から6月20日くらいまでが出荷期間となった。
受粉時期に蜂がしっかりと働いてくれるからである。
「人間と違って、モレが無い。本当に目ざとく見つけるよ。」
りょくけんとしては、この収穫時期も重要で、熊本の内田さんのスイカから、鳥取の田村さんのスイカの
ちょうど、間にはまるので、きれいにリレーできるのだ。
平川さんのスイカも、一株一果。
一株から3本の弦を伸ばし、一番良いものだけを残す。
栄養価が集中するため、ばらつきが少なく、食味の良いものに仕上がる。
平川さんは、数か所のハウスで、一町=1ヘクタールの面積で、このスイカたちを作っているというから驚きだ。

「島原には以前にも来たことがあるとですか?じゃあ、この、真っ平らじゃないこともご存じ?」
平川さんが身振り手振りで、でこぼこした様子を表しながら仰った。
そう、島原には何度か来ているが、本当に起伏に富んでおり、同じ島原でも土目が、それぞれだ。
「言葉も違うし、文化もちょっと違うからね。いわゆる移民なんですよね。」
江戸時代初期。
島原半島は、島原の乱で、たくさんの人が亡くなった。
布津からもほど近いという原城は、天草四郎時貞を始め、隠れキリシタンの最後の拠点だった。
「今でも、少し掘ると白骨が出てくるらしいよ。」
当時、たくさんの方が亡くなり過ぎて、遺体もそのままだったのだと言う。
そして、人口が減り過ぎたため、他地方から、移民を奨励したらしい。
だから、同じ島原でも、方言がけっこう違うし、食文化なども違うのだ。
島原の名産に”島原そうめん”があるが、小豆島から移住してきた人たちが、伝え、独自に発展したものだそう。
そういえば、先ほど訪ねた田尻さんのおっしゃる言葉は、ほとんど聞き取れず、理解できなかったけれど、平川さんの言葉は分かりやすかった。
「品種は???」と質問。
「羅皇ザスイート。それと縞無双ハード。自分は本当はもっとやわらかい果肉で、それこそ志村けんがシャーシャーっと食べていたような、一気に食べられるようなスイカが好きなんですけども。」
そう話す笑顔が、なんだか、また照喜治さんのように見える。

二時間くらい話してしまった。
「スイカがある時期だったら良かったとですが。」
適期、適地、適作。
というけれど、私は最後は、人。
適人だと思っている。
スイカは無い時期ではあったけれども、色々なお話を伺い、人柄に触れることが出来て、嬉しい時間だった。
※ちなみにこちらは、愛犬ハナを抱いた照喜治さん↓
