りょくけん東京

りょくけんだより
りょくけんだより~ BLOG ~

原木なめこ 原木生椎茸 産地訪問記 社長日記 長ねぎ

西木にて。

横手から次の目的地である西木町は、北へほぼまっすぐ。
武家屋敷で有名な角館(かくのだて)を経由する。

そういえば、大学の合宿所が角館にあって、夏にゼミ合宿を行った覚えがある。
このほど、結婚式でも乾杯の音頭を取ってもらったそのゼミの先生が亡くなったと一報があった。
今年最初に二冊、ポルトガル史に関する書籍を出版していた。
今月末、もう一冊、出版されるとのこと。
ポルトガルの歴史百話という、その原稿を書き上げて、亡くなったことになる。
退官して20年以上経った今も、第一線で活躍されていたことに本当に敬服する。
変わった名字で、自己紹介の際に、必ず

「私は武田鉄矢のお兄さんです。」

と仰るお茶目な先生でもあった。
金七先生。

結婚式の乾杯の祝辞では、

「18世紀後半のヨーロッパでは、重商主義に対して、重農主義※という考えが生まれ…」

お、講義が聞ける!と思った瞬間に、まだ幼かった私の姪が泣き出して、終わった。

「大森夫妻のご多幸と重農主義に乾杯!」と音頭をとってくださったっけ。

心からご冥福お祈りする。

1時間ほど車を運転したところで、西木の齋藤さん宅に着いた。
いつの間にか、雨足が強くなっている。

そういえば、こちらも齋藤姓だ。

藤原家が荘園制度を通じて、全国に勢力を強めて行った頃。
現地までいけない藤原家の代わりに代官を務めた方たちが、藤原を補佐する=佐藤姓、藤原に加わる=加藤姓を名乗った。
齋藤家は、藤原家のうち、祭祀を司る斎宮に関わった人たちが名乗ったらしい。
特に奥州=東北地方には多い名前だと思う。

”西木”というだけあって、木々が多い。
雨の雲や霧に包まれた山にはうっそうと木が茂っている。

かくいう齋藤さんも、お父様は樵(きこり)だった。

「東京で美大に通っている娘が、農業の方は手伝ってくれることになったんだ。」と嬉しそうにしていた。
が、ほどなく、癌が見つかり、その治療に通っていた、岩盤浴で雪崩に巻き込まれ、亡くなった。

「大森君、ニュース見てみて。齋藤さんが…。」

同僚からの電話でテレビをつけると、ちょうどNHKのニュースで報道されている。
被害者3名の名前に、西木町 齋藤譲 という名前を見た時には、まさか、と本当に思った。

人の命は儚い。

————–

娘さんと奥さんは、林業は継続しなかったものの※、立派に農業は継続。
山の栗を始め、椎茸や畑作、稲作も含め、3~4町ほどの農地を切り盛りしている。
美大卒の娘さんは、東京にもなじみがあるので、お店にも良く来てくださったので、りょくけんスタッフからの親近感も一際高い。
絵の展示会にも参加していて、りょくけんのお客様にもお声をおかけしてたなあ。

…と言うわけで2011年以来の訪問。

齋藤家にも色々変化があり。
奥様は、右膝を悪くし、少し歩行がおっくうに。
娘さんは結婚し、長男が生まれ、来期からは、別の仕事をしていた旦那さんも就農するようである。
旦那さんのご実家の支援も受けて、齋藤農園は益々発展していく。

原木なめこ、原木椎茸、絹、長ねぎ、花のりんどうなどを、雨が降る中、拝見した。

「大森君。お父さんのお墓にも寄ってください。ね。」

畑の真ん中にある、お墓に移動し、譲さんの墓前で手を合わせた。

最後の電話の相手は、私だったそうだ。

そこからは1時間くらいだろうか、椎茸ハウスで暖をとりながら、世間話…というか。

普通にしゃべってしまった。

お二人の高らかな笑い声がハウス中に響いていた。

外はやっぱり、カメラが正常動作しないくらい低温で、雨が降りしきっていたけれども。
譲さん、見守ってあげてくださいね。

西木は雨が多い地域らしい。
だから、林業やきのこ栽培が生まれたのだろう。

頂いたなめこは、お味噌汁に。
きのこ嫌いの息子たちも珍しくぺろりと食べた。
やはり良い出汁が出る。

出始めの絹は、妻がバター醤油で料理してくれ、絶品だった。

ねぎを経営の主力に据えてはいるけれど、このきのこたちも、継続していってほしいと強く思った。

———-
※重農主義 …フランスの経済学者が唱えた経済理論で、すべての富は、土地に由来した農業から始まるとした考え方。
※林業 …古くから、山は女性にたとえられ、男性しか入ることを許されない習わしがあった。とはいえ、齋藤さん曰く、重すぎて女性には無理、とのこと。