ベビーパーシモンこと、まめ柿は、新潟の佐渡島で生まれたピンポン玉サイズの柿だ。
近藤さんと言う方が、自分の柿農園で見つけた平核無(ひらたねなし)柿の枝変わりだ。
近藤さんは地元だけで販売し、佐渡島のフェリーの直売所などで、お土産として販売していたくらいだったらしい。
近藤さんも、平核無の突然変異だからと、”突核無”と、なんというか、あまり、その、さほど魅惑的でない名称を付け呼んでいたようだ。
(ちなみに、今は”佐渡乙女”という名で新潟では販売している)
噂を聞いた国の機関と近畿大学が、コンビニなどで一口で食べるカットフルーツとして有力なのではないかと研究を始め、2011年に近畿大学の方で”ベビーパーシモン”という商標を登録した。
小倉さんは、というと、京都の大学の先生から料亭の庭木にしたいから作ってくれと頼まれ、岐阜の試験場の方と一緒になって作り始めた。
2009年に私が初めて小倉さんにお会いした時にはすでに実をつけていた。
「食べられるようなんだけど、渋抜きがまだ分からない。」
渋柿の渋抜きは、干したり、アルコールを掛ける方法がある。
最近では二酸化炭素で処理することが多い。
小倉さんもそんなことは当然、知っていたが、それを、どう個人の規模で実行するか思案していたころだった。
りょくけん松屋銀座店で販売し始めたのが翌年の2010年。
もの珍しさだけでなく、美味しいため、ずっとヒットし続けている。
あの時、「まめ柿って興味ある?」といたずらっぽく聞かれなかったら、今のようにはならなかったのだから面白いものだ。
小さい果実のためか、熟期は早く、例年、8月末からは収穫が始まっていたのだけれども、今年も、昨年も、2~3週間遅れた。
答えは明確で、暑すぎるからだ。
柿の着色には、気温が大きく影響する。
23度以下の気温に反応し、赤くなり始めるのだ。
「8月の末には取り始めてたのが、今じゃ、中旬。いや中旬も危ないかも。」と小倉さんが首をかしげる。
そんな話をしていたら、外出していた小倉さんの奥様が帰宅された。
昨年は、小倉さんと奥様で、合わせて3回入院したのだそう。
それを契機に、大きな鉢植えで柿を栽培する”ポット柿”は撤退。
露地栽培も縮小した。
「入院中に難聴になっちゃってね。」
「でも、今よく聞こえてるじゃないですか。」と聞くと、耳の裏に納められた補聴器を見せてくださった。
透明なイヤホンは耳に、透明な線を伝って、耳の裏に本体がある。
目立たないので、まったく分からなかった。
「暑いですよね、冷たいお茶をどうぞ。」
奥様がお茶を運んできてくださった。
「奥様が、あの、小倉家の…。」
「そう、小倉家の末裔よ。」とやや冗談っぽく、半ば本気っぽく誇らしげに答えてくださった。
なんだか品がある。
小倉家の研究が無ければ、この世に富有柿は生まれていない。
「大森さんが、イベントもあるから、っていうんで、ちょっと採ってみて、渋の処理をしたものがね、少しあるんだけれども。もちろんちょっとBにもならないC品なんだけれど。ちょっと食べてみて。」
貴重なまめ柿が、ずらりと並んでいた。
食べてみたところ、渋はなく、十分に食べられるものだったけれども、やっぱり少し物足りない気がした。
「ちょっとね、まだでしょ。色味もなんだけれど。」
関谷さんと小倉さんと奥様で、井戸の水をどう止めるか、柿畑を更地にする費用のこと、病気のことなどで話が盛り上がっていたのだけれど、一息付けそうなところで、いつものように
「畑、見に行きましょうか。」と告げた。
関谷さんも久しぶりに小倉さんに会って、楽しかったのかもしれない。