りょくけん東京

りょくけんだより
りょくけんだより~ BLOG ~

下伊那 松川

上田から松川へ。

信州上田から、下伊那にある松川までは同じ県内にあって、車で二時間かかる。

信濃の国という地域的な概念がありつつ、戦国時代も含め、信濃を統一した領主はいない。
江戸時代は松代藩、松本藩、上田藩、飯山藩、小諸藩、高遠藩、飯田藩、須坂藩などなど改廃を含めると、19藩が存在した。

長野県はそれだけ広いのと、山が多く、人流も物流も遮られるから各地域で信仰と経済力と武力を持った有力豪族が育ったのだと思う。

長野に出張に行って車を走らせるたびに、雄大な山々と、やたらと時間がかかる移動時間を思い知らされる。
新幹線はやたら早い。
ところが、車の移動は、本当に時間がかかる。
車の量が多いし、トラックなど大型車両が多く、まっすぐな道も少ないから、車両の追い抜きが容易でないのだ。

カーナビやGoogleMapで、”二時間”と出れば、本当に二時間あるいはそれ以上の時間がかかる。

諏訪湖や、南アルプスの雄大な景色、長いトンネルを何度か潜り抜けて、ようやく松川にたどり着いた。
インターの出口から、目的地だった中村さんの農園はほぼ一本道で近くだった。

少し脇道に入ってすぐご自宅があり、車を停めて、メモ帳やカメラ、ペンを用意していると、背後の倉庫から気配を感じた。
慌てて、車を降り、ご挨拶。

「大森さんですか!?」
「はい、りょくけん、大森です!」

そそくさと名刺交換する。

中村さんの肩書にまず目が行く。

”りんごの巨木アーティスト”。

ふむふむなるほど、そこに差別化のポイントを置いているのかなと察した。

ここ、松川の農家さんとりょくけんの付き合いは長い。
もとより、浜松と松川は意外と近い。
ほぼ信号のない下道で3時間くらいで来ることが出来た。
佐々木と言う農家さんと永田家が交流したことから、13戸の農家が所属する”ましの農園”が生まれた。
標高400~900mを超える山の斜面、冷涼な気候、寒暖差を生かした、りんごや梨の産地だった。

時が経てば、13戸の農家さんの事情もそれぞれ変わってくる。
団体で販売するよりも、自分で販売力を付ける方、ジュース加工場を併設して大成功を収める方、後継がいる方、いない方。

そして年も取る。

きっかけとなった佐々木さんと言う方も、実のところ、私は一度もお会いできなかった。
奥様は、ましの農園の事務を長年務めていたから、たくさんお話をしていたが、私が来るようになったころには、すでに病に伏せていた。

それぞれの事情も重なり、2024年、ましの農園は解散した。

好きな産地だっただけに、悲しかった。

けれど、梨やりんごは確保せねばらなぬ。
古い資料をひっぺ返し、個々の農家さんの連絡先を調べ出し、なんとかやり取りがつながっていった。

ましの農園のメンバーだった矢澤さんも大好きだった農家さん。
旦那さんは甲子園出場も果たした強豪校の4番バッター。
大柄な方だった。
奥様は、佐々木さんの前に事務担当をしていた関係で、何度もお会いしていたし、畑もよく案内してもらっていた。
矢澤さんは奥様の家を継ぐ形になったけれども、息子さんには自分の家である中村家を継がせていた。

農家としても代替わりをした中村さんは、お父様のように大柄で、あごにひげを蓄えた面構えは、お母様に似て男前だった。