りょくけん東京

りょくけんだより
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ぶどう

信州上田、松崎家。

早朝、なんとか頑張って起き、東京発 6:28の新幹線に乗った。
えきねっとというJRのサイトで購入すると、手持ちのSuicaと連携することができ、事前に登録しておくと、切符要らず、新幹線の改札もSuicaをタッチするだけで入場できる。
素晴らしい。

7:40には佐久平駅に着いた。
佐久平駅は比較的新しくできた駅で、駅を中心に、訪れるたびに商業施設ができていて、町の発展を強く感じられる場所だ。
最寄りのレンタカーは借りられなかったので、10分ほど歩いて、レンタカーをお借りした。
大手二社では借りることが出来なかったので、とても貴重な一台である。

40分ほど運転して、上田市内の松崎さんのお宅に着いた。

「ああ、大森さん。上がって~。」

いつも忙しい時に来ることが多く、お屋敷に上がるのは初めてかもしれない。
玄関をくぐると、車いすが目に入った。

どなたのだろう…?

松崎さんとりょくけんのお付き合いは長い。
40年くらいになるのではなないだろうか。
いったん途切れていたご縁を、何も知らない私が、りょくけんに入社した年に、ぜひもう一度お付き合いいただけないかとお願いした。
その年は、不作だったこともあり「今年はちょっと出せそうにないけれど、来年また連絡もらって良い~?」と優しく言われた。

私が28歳の時だから、もうあれから20年が経ったことになる。

居間に案内され、少し低めの食卓の席に着いた。

「もう今年で83。 83歳になる。年は取ったけれど、まだまだこうして、医者にもいかず、元気だわい。」

少し腕を振ってスクワットの仕草をしながら、昔と変わらず、優しく語り始めた。

でも。

私には、どうしたって、痩せて見えたし、少し猫背になった松崎さんは、以前よりも小さく見えてしまう。

右側の席に、松崎さんの奥様もいらして着席。
奥の部屋からここまで来る音と、少し大きな動作をしないと歩みを進めれられない様子を目にして、車いすの主は奥様だと分かった。

「昨年から足を悪くしちゃってね。もう私は、選果と梱包しかできなくなってしまって。」

足はそうかもしれないが、顔色が良く、声にも張りがあり、耳も良く聞こえている。

「お茶を淹れましょうね。」
「あ、お構いなく。本当に。」

そう告げたけれど、さっと茶葉を急須に入れ、私めにお茶を出してくださった。

「あれは小3の頃だったなあ。」と松崎さんの弁に再び耳を傾けた。

戦前戦後、小さい頃は、水がなく、”水喧嘩”が絶えなかった。
目の前の山には小さな沢しかなかったのを、霧ヶ峰や美ヶ原から用水路を引き、水が枯れることは無くなった。
豊かな雪解け水が、塩田平の地を潤わせたわけだ。

「それまでは稲、小麦、養蚕。そこから、オヤジがたばこに変えて。十年くらいやったかなあ。もうかったんだよ。」
たばこの葉は、お金になったらしい。
だけれども、タバコの葉にはニコチンが含まれ、蚕が死んでしまうらしい。
養蚕はあきらめた。

「それから、今度はホップ。これも儲かったなあ…。高校に入るくらいまでやってたなあ。なにしろ、換金作物をね、よく勉強して作ってたなあ。」
食べるための農作物ではなく、お金に替わる農作物を、松崎さんのお父様は作っていたらしい。

「それからね、高校を卒業するくらいだったな、ぶどうを、ここいらの地域では先駆けて始めたんだな。そしたら、売れる売れる。当時はどこにもなかったから、あっちからもこっちからも言われて。」

最初はコンコードとナイアガラを作っていたそうだ。

「そいから、美味しいということでデラウェア。そして巨峰。」

お父様に似て、松崎さんもとかく、最新品種を作ってきたわけだ。

キキッ。
バタ。

軒先で車が止まり、扉が開く音がした。

「あ、来た来た。」

松崎さんには4人の娘さんがいる。
3年前から、長女の旦那さんが、ぶどうづくりを手伝っており、毎朝、お屋敷に立ち寄って、一緒に畑に行く。

いかにも農家!というよりは、やはり仕事をしていた印象の、大柄の男性が、食卓に入ってきた。

「こんにちは! りょくけんの大森です!ずっとお会いしたいと思っていました。」
さっと名刺を差し出した。

「俺も、まだできる!と思いながらもね、若い力に頼ろうとね。決めたんだ。今後は伝えていくとという作業をしようと。」
「そうそう、お父さん、まだできると思って無理して、毎年ケガしてるじゃん。もう無理しないように。」と穏やかに、それとなく私に現状を伝える言葉を発してくださった。

松崎さんは農協の役もやったし、学校のPTA会長もお務めになった。
地域のぶどう栽培の先駆者でもある。

その矜持を傷つけないよう、懐に入っているのがなんとなく分かった。