佐賀県嬉野(うれしの)の太田さん。
1970年代に、りょくけんの創始者のひとりである永田照喜治(てるきち)の呼びかけに呼応し、お茶の”無農薬栽培”に挑み、始めてくださった方。
お茶の葉は、農薬の基準が、そのものを食べる野菜と違う。
お茶の品質や等級、価格が葉のきれいな形に関わっているので、虫食いがあってはならず、農薬を相当使用する。
ところが、野菜くだものと違い、お茶そのものを食べるわけではなく、煎じて飲むので、残留基準が高いのだ。
永田は当時、お茶の栄養をそのまますべて摂取できないかと考え、茶の葉を砕いた粉末茶を思案していた。
そのものを飲むので、できれば農薬不使用の茶の葉を利用したい。
ところが、そのようなお茶の葉は当時は皆無に近く、そのような考えは異端と見られた。
少年期に、農薬中毒に苦しんだ太田重喜さんは、体に良いお茶を作っているのに、なぜ体を壊すのだろう?と疑問に持っていたそう。
最初は一部の畑の使用農薬を減らすことから始め、1980年代には、完全に化学合成された農薬の使用を止めて、お茶の葉を栽培することに成功した。
りょくけんともウマがあったようで、佐賀緑健を立ち上げ、みかんやミニトマトの現地代理店としても活躍してくださった。
個人的には、永田照喜治の自宅でごちそうになった”茎茶”が衝撃的に美味しく、驚いたのを覚えている。
「お茶の茎のお茶だ。佐賀の、太田さんが送ってくれる。」と訥々と話していたっけ。
重喜さんの息子さんである裕介さんにそんな話をしたら、「好みですね。茎茶は独特ですから。」と。
重喜さんの考えは、その裕介さんにしっかりと引き継がれ、裕介さんは現在、茶葉を発酵させた紅茶や半発酵のウーロン茶にも挑戦している。
私が太田さんを訪ねた時は、父 重喜さんは「紅茶が好調なのは良いんだけど、肝心の緑茶がね。もっと売ってほしいね。」とチクリ。
受け継がれたものを大事にしたい父親と、最前線に立ち、それだけでは成り立たない多様性に触れている息子さんとの、考えの違いというか。
そういうのはあるのだろう。
「遠いところからわざわざ、ようこそ。」と重喜さんはお茶を出してくださった後、隣の部屋で静かにたばこをふかしていらしたのが何だか印象的だった。
裕介さん曰く、足腰が弱っていて、畑にもあまり出ていらっしゃらないとのことだった。
そんな重喜さん。
茶摘みの繁忙期である八十八夜を前に、4月末にお亡くなりになった。
人には寿命があり、必ず、そうなるのは分かっているものの、「あ、そうかあ。。。」と悲しくなった。
参列したかったが、お通夜も葬儀の日も、GW商戦中の厨房の勤務。
人手が不足していたので、今回は叶わなかった。
せめて、と供花と弔電を手配し、周りのお取引さんで関係がありそうな方に連絡した。
重喜さんは亡くなったけれど、そのお茶と畑と考え方は立派に引き継がれている。
ヒトが無くなってもコトは残る。
私もそうありたいとふと思った。
ーまだまだだけれど。
心からご冥福をお祈りいたします。