浜松は良いところだった。
農産物は柑橘やりんご、野菜、米など何でもあるし、平野も山も、商業施設も、食べるところもいっぱいあった。
会社には、お取引先だったから、顔見知りの方もいたし、商談で話していて、勉強にしかならなかった、青果の知識が無限の永田家の人々や生産部の先輩もいた。
同年齢の男子社員も次々と入社して、とても楽しかった。
変わらないこともあった。
それは、野菜の需要と供給に悩むこと。
SKIP側にいた時は、りょくけんさんは良いなあと思っていた。
SKIPは、販売計画に満たない野菜については、キャンセル料をりょくけんに支払っていたわけだけれど、
キャンセルされた野菜くだものは、はい、そうですか、というわけではなく、すべてりょくけん側で販売していた。
いつものお取引先さんに頭を下げて、通常よりも安いお値段で販売する。
SKIPの松屋銀座店がオープンした際には、テレビでもたくさん取り上げられたから、ものすごい集客だった。
それこそ、柱周りのお店に、二重三重のお客様の行列ができていた。
だのに、お目当ての商品がない。
高糖度トマトと糸井重里さんが名付けたトマトは、即完売で、まったく足りなかったからだ。
その時も、りょくけんさんは良いなあと思っていた。
でも、ない時には、やっぱりなかった。
それこそ、社内で取り合い、というか。
無理に分けてもらうと、病気だったりカビが生えてしまっていたりで、お取引先さんから強いお叱りを受けることもあった。
先輩に泣きつくと、「だから今、畑の状態が悪くて、量がないのに、無理行って出してもらった。それを赤伝なんてできないよ。」
農産物ならではの事情も知った。
「生産者さんが今はちょっと…という時には出してもらわない方が良いよ。」とアドバイスをもらったっけ。
りょくけんの創始者でもあり、アイコンだった永田照喜治さんの自宅 兼 永田農法研究所にも足しげく通ったこともあった。
ずっと会いたかった方。
肌がカチカチに乾いて固そうで、あまりしゃべらない。
ふっと優しい顔を見せる。
「こどもが野菜嫌いになるのは、こどもが悪いんじゃない。まずくなった野菜がいけないんです。」
時々放つ言葉の力には、強く引き込まれた。
ご長男は、販売部門の責任者で、それこそしょっちゅう同行して、全国各地の産地を周って勉強させてもらった。
最初は何も知らないから、畑になっているものを片っ端から「これはなすですか?」「これはトマトですか?」と農家さんにも聞きまくった。
それこそ「恥ずかしいから止めてくれる?」と販売部長に止められるほど。
三男は、生産部門の責任者。
永田照喜治さんの技術を一子相伝に受け継いでいる方だった。
そこに、自分自身の知識と経験を加えた感性と基準と味覚を持っていた。
一緒に産地に行くことは少なかったけれど、菊川の農場の責任者になられた後は、頻繁にやり取りさせてもらったなあ。
次男は、会社の代表。
販売も生産も両方の知識があった。
私の命題であった松屋銀座への出店の打ち合わせのため、週に1回、一緒に上京した。
おおよそ1時間半の新幹線で、しゃべるしゃべる…