りょくけん東京

りょくけんだより
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とある情報。

チュニジアに行く前に、私は浜松の株式会社りょくけんに永田次郎社長※を訪ねていた。

SKIPを運営していたユニクロの子会社エフアールフーズの柚木社長※から、とある情報を聞いたからだ。

浜松駅までは新幹線。
そこから地元で赤電の名前で知られる遠州鉄道に乗り、遠州小林駅を降りた。
朝9時にお会いしてから、16時に駅で再び別れるまで、次郎社長はしゃべりっぱなしだった。
私は、ただそれを聞いていただけ。

でも、もしこの野菜や農業の知識を、SKIPの商品部時代や店長時代に持っていたら、きっともっと成功しただろうと思った。

商売で負けたままで良いのか?

SKIPが撤退を決めた後、熱心なデパートのバイヤーから、りょくけんは出店要請を内々に受けていた。
りょくけんは、卸売りの経験しかないという理由で、丁重に断ったと聞いている。

SKIP松屋銀座店は全6店舗の中でも売り上げが良かった。
そんなポテンシャルのあるお店があった百貨店からりょくけんに声がかかっていると聞いて、ならばその小売店舗の立ち上げは、他でもない、私がやりたいと思ったのである。

世界中に、商人がいて、みんな必死に頑張っている。
チュニジアでその姿を見て、その思いがさらに強くなった。

帰国後、次郎社長に電話し「私にやらせてほしい」と伝えた。

もちろん両親にも相談した。
父は、「その社長が、お前を認めたのなら、俺は嬉しい。やってみろ。」と前向きだった。
中学の教頭まで勤め上げたけれど、それまでは色々あった。

母には「ひとつ言って良い? 八百屋さんをやらせるために、ノルウェーやポルトガルに行かせたわけじゃないからね。1年間留学までさせて、八百屋さんはないんじゃない?とは思ってるからね。」お小言をいただいた。
「でも、考え方を切り替えればね。食べ物は無くならない。絶対必要なものだから、まあ、頑張って。」と最後は背中を押してくれた。
ーと思う。

そういえば、ユニクロからSKIPに転籍する際にも、「石の上にも三年って言うわよね。2年で辞めて他の仕事をするのはどうかと思うわよ。そういう上司たちともうまくやれるような度量を持ってほしかったわ。ホント、お父さんと一緒。」とチクリと言われたっけ。

2004年6月1日。
最低限の荷物を山口ナンバーの愛車に積んで、浜松に向かい、希望と決意をもって、りょくけんの扉を叩いた。

28歳の時だった。

※役職当時