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新潟・吉川にて2。

山本さんの楽しいお庭を覗いた後、建て替えの時も移築したと言う座敷で、しばらくお話しした。
照喜治さんの話、どこそこまで行った話、吉川の盛衰の話、などなど。
二時間ほどして15時を回った頃。

「そろそろ中村さんも帰って来たかな。行ってみましょう。」

永田農法研究会のもう一人のリーダーである中村さん。
ちょうど通院の日だったそうで、14時半ごろ終わるだろう、ということだった。

「湯沢に行くのだから…。軽トラで先導しますんで、レンタカーでついてきてください。」

ここで平野部とお別れし、また山道に入った。
吉川区は、広い。

くねくねと山道を上がり、真新しい山小屋のような場所に駐車して、徒歩で少し上がっていくと、中村さんのお宅があった。
古くからの、屋根が高い古民家。
以前はきっと茅葺だったであろうトタン屋根の角度はとても急だった。

玄関に、中村さんが何かの作業をしながら、立っていた。

東京で、山本さんには何度か会っていたけれど、年長者である中村さんには初めてお会いした。

「どうも、遠くからわざわざよくいらしていただきました。」

体躯が良く、背筋は伸びている。
落ち着いた口調で、見るものを引き込む感じがある。

山本さんが”動”ならば、中村さんが”静”か。

これまた趣のあるお座敷に案内され、お茶とたくあんをご馳走になった。
柿と塩だけで味付けした、お手製のたくあんは、とても美味しかった。

平野部に雪は残っていなかったけれど、中村さんのご自宅前には2mは超える雪が残っており、スプリンクラーのようなものから水がその雪に対して、ずっと流されていた。

「先生はね、」と中村さんが口を開いた。

永田照喜治の話、永田家の話、現在のコメの状況や、国のコメ政策、アメリカの農産物輸入の可能性、コシヒカリや新之助※の話などなど。
二時間くらい話した。

そして、お願いした。

「今期はもう分けられないと聞いているのですが、新米の時期から、なんとかお付き合いいただけないですか。」と切り出した。

私が山本さんと一緒にいる4時間ほどの間。
すでに2回ほど「お米はないか?」という電話が山本さんには入っていた。

「大森さんから、そういう話は将来的には来るだろうと思っていました。」

正直なところ、昨年の4月ごろから、お取引の話があった。
吉川の産物である、吉川青大豆や〆はりもちについては、すでに譲ってもらっている。
新米のサンプルもいただいた。

その時点で、お取引に移れなかったのは、いかに魅力的な農家さんでお米であっても、既存のお取引があるお米農家さんがいたからだ。
京都、長崎、そして茨城の農家さん。
だが今、その三産地とも、米在庫が無い。

私のお願いは、あまりにも、都合が良いものだった。

「もしあの時、大森さんが『ハイ』と言って、始めてくださっていたら、お譲りしていたんですが、今は、本当に、無いんです。新米についても、簡単に増産が出来なくて。思った以上に、メンバーがかつかつの許容量で作っていて、これ以上、増えないんです。」
「誰でも良いってわけじゃないんでね。永田先生の教えをちゃんと理解して、実践している方じゃないといけないですから。」と中村さんが静かに語る。

11人のメンバーに増産の打診をしたが、田んぼのほとんどをこの健菜米に費やしており、田んぼの面積の余力がない、ということだった。

「収穫して、メンバーのをかき集めて、5俵とか6俵とかでしたら何とか、というレベルです。」

約束することはできない、そういう回答だった。

カーンカーン。
17時のチャイムがなった。

「さ、でもちょっと田んぼは見ていってください。もしかしたら夕日がきれいに見えるかもしれない。」