松田さんの本業は建設業だった。
50歳を境に、何か新しいことを始めようと、最初は、水耕栽培に挑戦するつもりだった。
他県に赴き、視察を重ね、いよいよ市や県と調整し始めたら、方々から「水耕栽培はやめておけ」と諭されたそう。
水耕栽培は、初期投資が大きい。
収穫量は計算できるが、その設備投資を回収するのが大変なのだ。
どうしようか考えていた時、隣の入来町の農家から、「金柑を引き継いでくれないか?」と誘われた。
入来町はすでにちょっとした金柑の産地ブランドになっていたが、承継する人が少なく、困っていた。
今でこそ、完熟金柑と言えば宮崎が一番の産地ブランドだが、ハウス金柑、つまりハウスで金柑を栽培しようとしたのは鹿児島の方が先らしい。
そういった経緯で、新たに取り組む土地を探していたところ、見つけたのが、今の場所だった。
風速60mに耐えられるビニールハウスが1町1反あり、そのすべてに完熟金柑(品種は寧波)が植えられている。
事務所から向かって左側が早い作で、12月から出荷する4連棟があり、右側にはもはや何連棟あるのか良く分からない数のハウスが並んでいた。
奥行きはすべてのハウスで60mほどあり、中には比較的ゆったりとした株間で、いくつもの金柑の樹が植えられてあった。
「ここは元々、谷だった。」
信じられない言葉が松田さんの口から出た。
私有地ではなく、国有地だったので、国と交渉し、購入。
谷の低い方に、堤防を建設し、客土して、できた土地なのだそう。
なにしろ本業が建設業である。
谷を埋めて土地を作る、なんていう作業は慣れたものだったようだ。
りょくけんでは、長い間、宮崎県木城町の藪押さんの完熟金柑を取り扱ってきた。
藪押さんが病に倒れ、しばらく間が空いた。
『藪押さんはなんで金柑を始めたんですか?ハウス職人なのに。』
『いやあ、金柑のハウスをよそに建てに行って。これは美味しいし面白いなって思って。』
生前、藪押さんがおっしゃっていた言葉を紡ぐように思い出し、鹿児島の松田さんに辿り着いた。
藪押さんの完熟金柑は、他の宮崎の完熟金柑と比べて、極端に酸味が少なかった。
あの味はなかなか無く、秘密を聞いたら、
『ステビアをね、ちょっと撒いてるんだよね。』
ステビアは甘味料になる植物だが、肥料にして土に撒くと、根の張りが良くなり、微量栄養素をよく吸収するのだそう。
ステビアを使って金柑を栽培している方を探したところ、唯一見つけたのが松田さんだったのである。
藪押さんがハウスを建てに行って、栽培を参考にしたのは、松田さんなのではないかと仮説を立て、金柑を入手して食べてみたら、美味しく、味が似ていたのだ。
剪定のこだわりを聞いた後、肥料の話が始まったので、思い切って聞いてみた。
「松田さん。ステビア、使ってますよね?」
「ステビア?いや、昔ね!昔ちょっと使ってた。でも今は使ってない。」
あり?
金柑栽培を初めて21年。
長い年月を経て、いろいろ変わっていくものだ。
少々肩透かしにあったものの、スケールの大きなハウス群の農場を見て、満足した気持ちになっていた。
天候は不思議で、晴れ間が見えたり、雨が降ったり、風が吹いたり、雪が吹いたり。
「雪、降ってますね。こんなこと、きっとあまりないですよね…?」
「ないね~。年に一度、あるかないかだね。大森さん!大変な日に来たね!」
お昼にとても美味しいお寿司をごちそうになってしまった。
”銀座から来た人”と、私のことは認識されており、高級な人間のように思われてしまったようで、少し申し訳なかった。
お寿司はもちろんのこと、前菜の若竹の子煮、焼き胡麻豆腐がとても美味しく、、、
銀座でも修行をしていたという大将のお店、魚昌さん。
また個人的にも訪ねてみたい。