電話を切った後、しばらくの間、事務所でお母様と話をした。
虎雄さんが社会人になる前の話、そのあとの話、お父様のお名前だったり、お兄さんの話も少し。
思った通り、というか、虎雄さんはかなり優秀だったようで、文武両道、ゴルフはもちろん、勉強もできて、周りの人に恵まれ、今があるという。
お父様は、生三と書いて、セイゾウと読む。
三男なのかと思いきや、四男だったそうな。
「変わった親でね。”三”という字には、沢山という意味があるそうで、『沢山生きなさい』という意味を込めて名付けたらしいよ。」と後で生三さん本人に聞いた。
そういえば、どこかの言語でも、1と2までは単語があるけれど、それ以上になると”たくさん”という単語しかない言語があったような。
「今の電話でも分かると思うんだけど、ほんと、周りの人のいうことなんて聞く人じゃなくて。つっぱしっていくから。虎雄は、そういう姿を見て、自分なりに考えて、ああなったんだと思う。」
なんだか頷ける。
虎雄さんは、かなり腰が低い。
相手の言うこともよく聞くし、かなり人を立ててくれる。
日本一の大きさのガジュマル。芋高さんの家からすぐの小学校の中にある。 |
そんな話をした後、私はレンタカーで島を一周することにした。
港からここまで来る間にも、じゃがいも畑はいくつもあった。
生三さんがどこかにいるかもしれない。
会えたらラッキーくらいのつもりで、車を走らせた。
沖永良部島は、独立した国だったが、沖縄本島が統一された後、時の中山王がこの地に渡り、戦わずして降伏した。
以来、琉球の文化が色濃く伝わる街になったようだが、今度は薩摩の島津に征服されたためか、お墓など一部を除くと、建物や家屋敷も、大和というのか、日本のものに近い。
沖縄のような石造りの家はあまりないようだ。
世之主の墓。沖永良部島独自の最後の王様の墓、と伝わる。 沖縄から中山王の使者が来た際、侵攻してきたと勘違いし、自害したという。 |
海沿いには、じゃがいも畑が広がり、サトウキビ畑も負けじと多い。
ゆりやグラジオラスが多いとも聞いたが、海沿いには無いようだ。
どこも土が赤く、海の青と空の青と雲の白と一緒になって映えた。
徳之島と違い、畑の海側に木の杭を立ててネットを張っている。
防風のためだろう。
北部にある絶景のひとつ、”フーシャ” 塩害をもたらすため、三つあったこのような地形はここを覗きすべて破壊された。 |
ところどころに、自然の絶景があったり、最西端という表示があったので、立ち寄った。
端っこ、いや、”最○○”はなんだか好きである。
最西端。田皆岬 |
ただ、どこに足を運んでも、人がいなく、海に落ちたらどうしよう?と腰が引けた。
昇竜洞という巨大な鍾乳洞があるので、そこにはぜひ立ち寄れ、と生三さんも、お母様も言うので、入ったが、暗い中、自動音声と、センサーで光が点くので、きれいなんだが、怖さが先に立った。
日本でも最大規模を誇る鍾乳洞”昇竜洞” 沖永良部島には鍾乳洞が100を超えるほど存在するとか。 |
特に、装飾品を身に着けた古代人の骨が見つかったという場所のあたりでは、自動音声では”古代ロマン”と称していたが、背中が震えて仕方なかった。
道筋には地下水が延々と流れており、出口のところでは川につながる。
この、水の音もなかなかだった。
出口のところのカフェで、人に会った時には、ほっと胸をなでおろした。
日も暮れてきた。
そろそろ良い時間だ。
さ、南のルートをとって、ホテルに向かわねば!