3月11日14時46分。
私は、この時を一生忘れないだろう。
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浜松本社から総務のYさんが一人上京し、池袋店と銀座店で仕事を済ませた後、小売事業を統括する東京事務所に来た。待望の旬菜弁当と、池袋店店長がくれたというフライドポテトやコロッケなどりょくけんの野菜惣菜を、机一杯に広げ、上司と同僚の4名で、やや遅めの昼食が始まったときだった。
「あれ、揺れとる。」
「地震だね~。」
浜松では東海地震が控えているから、Yさんは地震には敏感なほうだ。笑顔が消え、警戒心からか少し顔が引きつっていた。お弁当を片手に、机の下に潜ったが、食欲は完全に無くなった。揺れは続く。だんだんと大きくなり、外に出ることにした。他の部屋の方も腰を抜かしたような低い姿勢で、次々と外に向かっていた。エレベーターが止まっていたので、階段を駆け下りた。申し訳ないが、後ろは振り向かなかった。
銀座の歌舞伎座の建物の裏側には、オフィスビルがひしめいており、大手や中堅どころの企業やお店が多い。そのため、ビルから飛び出した人々で、道路はあふれていた。はだしで2人も3人も乳幼児を抱えた保母さんが枚挙して降りてきた。事務所のあるビルの3Fには保育園があり、お昼寝をしていたのだろう、まだ何が起こったか分からないような表情を浮かべていた。
揺れは収まらなかった。
駐車していた大きな黒い車がドサドサと揺れ、引き続き電線はユラユラとたわんでいた。
10分くらい経っただろうか、微妙な揺れは続いていたが、同僚が、松屋銀座内のお店の様子を見てくる、と言って向かった。事務所からは、昭和通りを渡り3分ほどの距離だ。西武池袋のお店も気になったが、携帯はつながらない。配管が壊れたのか、マンホールから水が溢れ出しているのが見えた。
状況が分からない。
携帯電話のワンセグ機能でテレビを見ていた方が「震源は宮城だって」とつぶやいている。東京からは、300km離れている。それでいて、この、長く強い揺れ…。強い危機感を覚えた。
突然携帯に着信があった。「ご迷惑おかけしているソラマメのことなんですけど。」鹿児島の農家さんからだった。一通り話した後、「しかしよく電話つながりましたね。」と言うと、「ええ、なんかつながりにくかったです。」「今、大きな地震がありまして…。」「え~~!こんな電話してるどころじゃないっすか!」
続いて浜松本社から着信。心配してくれたのだろうか!?「あさって納品のミニトマトのことなんですけど。」
静岡から向こう側は、まったく問題ないことが分かった。
家族と宮城の農家さんに電話したが、つながらなかった。大丈夫だろうか?
同僚が帰ってきた。百貨店の中は、驚くほど平静で、お客様もスタッフさんもみんな無事だったと報告を受けた。5Fの事務所に戻った。机の上の書類が散乱し、飲みかけのコーヒーがこぼれていた。幸い、大きな破損物は無く、電気も水も通っていた。インターネットで情報をとると、電車の、全線という全線が止まっていることが分かった。
西武の店長から連絡が入った。16時半で、急遽お店を閉めることが決まったという。すべてのお客様とスタッフさんを帰らせるように、との指示が百貨店側からあった。
楽しくお買い物をされていたのに、お店から出され、電車が止まっているから、どこにもいけない。そのときのお客様のお気持ちは一体どんなだったのだろう…。
松屋に向かうと、緊張感にあふれた社員さんたちが売場を巡回している一方で、少ないながら、お客様は普段どおりにお買い物をされていた。耐震構造と、「地下」という条件からだろうか、ビルの5Fにいたときと違い、かなりの安定感があった。ずっと続いていた揺れも感じない。
松屋も、20時閉店が早まり、18時閉店が決まった。この後、電車が動かず、帰れない、と分かった会社員で、お店はごった返すことになる。
「今から歩いて帰ります。」同僚や、池袋店のスタッフさんから次々と同様の連絡が入った。歩けば3~7時間かかる距離の人たちばかりだ。帰られない人も当然おり、自店のスタッフさんは、事務所で泊まる事になった。西武でも店長を含めて4名が帰られず、社員食堂が開放され、そこで一夜を過ごすことになった。後で報道される「帰宅難民」に、自分たちもなっていた。
大分の農家さんから入電。
「今日のトマトの収穫量です。 ~~テレビで見たけれど、宮城のほうの津波、映画のようで信じられんよ。ハウスも流されただろうに…。同じ農家として、心が痛みますわ。」
このとき、私はまだ映像を見てはいなかった。
妻と連絡がつながった。地震当時、7ヶ月になる子どもの授乳中だったという。揺れが始まり、これはまずい、と外に逃げた。アスファルトが裂け、目の前で激しくうごめいているのを見ていた、と聞いた。液状化だ。家財道具はほとんど無事だったが、皿が7枚割れた。不安定なスタンドミラーは、私が開け放したままにした扉に支えられ、倒れずに済んだという。断水で水は使えないけれど、無事だという報告だった。話している内容こそ、私を心配させたが、意外に元気そうな声が、私を勇気づけた。
一緒に事務所に泊まった松屋の料理長の自宅は、千葉の東岸。九十九里浜の近くにある。深夜になっても連絡がつかなかった。
大阪から来た上司に阪神淡路のときのことを聞くと、「あんときは明け方やったからなあ。どかーんと来て、とりあえず棚が倒れたらヤバイ思おって隣に寝てた子どもらを抱きかかえて、『寝なきゃ』と寝てたわ~。でもその後すぐ炊き出しに行ったなあ。」
■3月12日土曜日
眠れない夜が終わった。母の誕生日だった。妻と子を連れてお祝いに行く予定だったが、そのときはもう覚えていなかった。料理長は一晩中、うろうろして起きていた。家族と連絡がつかず、寝付けなかったのだろう。
まだ暗かったが、上司が一番に起きて、「電車動いとるようやから、一旦家戻って、西武の応援行くわ。さすがにこの格好じゃあ、お店出れんやろ。」と出て行った。
突然、事務所の扉が開いた。前日、3時間半歩いて自宅に帰った同僚が、事務所に出社してきた。携帯電話の充電器をありったけ持って、こちらも、「西武に行きます。」と向かった。
「とりあえず7時に判断する、と言っていました。」松屋はまだ開くか決まっていなかった。まもなく7時になるので、料理長と二人で松屋に向かう。
「来た!」
料理長の携帯が鳴った。奥さんからだった。実家に行ってはいるが、妻子ともに無事だと言う。良かった。
松屋の社員食堂は、昨晩帰れなかった方たちに解放されていた。朝食用にパンが振舞われていた。りょくけんのスタッフさんたちも2名残っていた。余震は続いていた。
松屋、西武両店舗ともに、ガスはNGなものの、開店が決まった。この状況下、この精神状態での営業。苦しいものがあった。「昨日の地震で家族が倒れた!」「まだ家族には会ってない」etc.
他のテナントのスタッフさんも宿泊した方たちが多いように見えた。地下鉄は動いていたが(一番早い復旧だった)、他の在来線、特にJRは運休が多く、働きたくとも、来られない人たちが多かったのだ。
開店を見届けて、事務所に戻った。宮城の農家さんと福島の農家さんにメールを打つ。
「無事ですか?無事ですよね?」
そのうちの一人からからはすぐに返信があった。福島の南相馬の農家さんだった。
「ひどい地震でしたが、無事です。ただ、出荷したしいたけと山うどが戻ってきてしまいました。欠品になります。」という内容だった。そんなこと、そんなこと!ご無事で何よりだった。
「今日お休みだよね?」妻から電話が入った。「子どもをつれて給水や買い物に行けないんだよね…。足場も悪いし。」気丈に振舞っていたが、弱気だった。お店に電話すると、
「店は大丈夫ですから、ご家族の無事をまず確認してください。帰ってあげてください。」と言われた。お互い泣きそうだった。
地下鉄が動いていたので、駅に向かった。途中、すべてのコンビニに寄って、ようやく最後のお店で水2Lを2本手に入れた。ほっとした。路線を乗り継いで、いつもの新浦安駅ではなく、少し遠いほうの浦安駅には着くことができた。駅はごった返していた。浦安駅から新浦安駅をつなぐまっすぐな道を行くと、ミッキーのカチューシャやおみやげ物の袋をたくさん持った方たちが列になって駅に歩いていた。遠く、舞浜の方までつながっていた。
新浦安の駅に近づくと、地面が避けた跡や、フラットだったはずの地面が盛り上がり、よく見れば電柱や信号が斜めになっているのが分かった。自宅は築30年のマンション。ほぼ同じ年数の事務所の壁には、ヒビがいたるところに入っていたから、自宅に着くと、すぐに柱と壁を見やった。ヒビは無かった。扉のたてつけも普段と変わらなかった。良かった。手を洗い、うがいをしようとすると、水が出なかった。断水だ。やっと買った水で手を洗うわけにも行かない。給水をしている、という小学校に向かった。
「次の給水車が来るまで、1時間くらいかかりま~す。」急遽、防災担当になったらしき先生たちが案内してくれていた。20名ほどの列が出来ていただろうか。グラウンドが裂け、水が静かに流れていた。海に近いせいもあるのだが、潮の匂いがした。自分も被災者なんだ、と思った。
やって来た銀色の給水車が輝いて見えた。
JRが動いていないのが分かっていたので、松屋で働いていた同方面の料理長と副店長を新木場まで自家用車で迎えに行った。舞浜駅も新木場駅も、地面のひび割れや冠水はひどいものだった。あちこちに土砂が積もっていた。
九十九里から浦安に戻り、報道を食い入るように見た。”無人”の街を飲み込んでいく津波。車が流され、家が流されていく。それを高台にいる人たちが何も出来ずに眺めている。信じられない映像だった。自分は被災者ではない、と思った。ふと、耳を疑いたくなるアナウンスが入る。
「仙台市若林区荒浜 町が壊滅、300人以上が死亡。」
「宮城県亘理町 町が壊滅。」
それぞれ、レタス&キャベツをつくる菊地さんの家の近く、タルディーボを作る大村さんの家の近くの住所だった。
“壊滅”って何だ?
「原発が止まり、明日は停電になる恐れが…」 そんな放送もあったかもしれないが、耳に入らなかった。
■3月13日日曜日
自治体の呼びかけで土砂の撤去などを手伝った後、本数は少ないものの、京葉線は復旧していたので、事務所に向かった。納品と物流の乱れの確認だった。宮城県岩沼市の大村さんの携帯に電話してみた。着信音はするものの、つながらない。続いて、仙台市若林区の菊池さんの携帯にかけてみた。ずっとつながらなかったのが、ついにかかった。夜遅かったので、寝ていたのだろう、少しそんな声だったが、無事を確認できて、ほっとした。
帰ろうとすると、同僚から電話があった。計画停電実施が発表されたのだ。「明日、自分の路線止まります。どうしましょう?」「なるようにしかならないよね。」よく分からないが、その時は、ひどく楽観的だった。思考能力もなかったかもしれない。
JRが動かないことに備え、浦安ではなく、東中野にある”実家”に向かった。そこからなら、丸の内線一本でなんとか来られる。あるいは自転車でも来られるだろう、と思ったからだ。
0時を過ぎたころ、在来線の運休が次々と発表されていった。そこで、来られないのが同僚だけではないことに、気づくべきだった。
■3月14日月曜日
翌朝、松屋銀座店の副店長からの電話で起きた。「自分、朝番なんですが、行けないんですけど…。」続いて池袋店の店長から入電。「自分行けないんですけど…。」テレビはつけっぱなしだったので、すぐに状況が飲み込めた。千葉や埼玉、茨城、西東京の路線はほぼすべて動いていなかった。
営業できるのだろうか?
自宅待機の指示が出たが、都内のスタッフさんはすでに松屋に着いてた。「急いで向かってくれるか?」と上司からの指示もあり、家を飛び出した。中野坂上の駅に着くと、入場制限が行われていた。ほとんどが運休となったJRに代わり、動いている路線に、乗客が集中してしまったのだ。駅構内はひどい混みようだったが、思ったよりもスムーズに銀座には着けた。地下2階の厨房に直行すると、二人が手際よくお惣菜の準備をしていた。厨房と売場で、いつもは10名ほどで運営するお店なのだが、3名で開ける覚悟を決めた。周りのお店は、さも何も無かったように、開店準備を進めているように見えた。
エジプトから帰ってきたばかりの義兄から突然電話があった。「車、無い?」先月、愛車は処分したばかりだった。彼は報道カメラマン。現地に行く手段を探していたのだろう。また姉が泣く―。
開店は30分遅れた。この状況で、お客様が来るわけが無い、と思っていたが、開店と同時にたくさんのご来店があった。驚いた。とても追いつかない。
「沖縄のトマトはどれですか?それとパインが欲しいんだけど。」
横を見ると、会長がいた。驚いた。そういえば、新幹線は動いている。関東近在の人たちは、まったく動けないのに、浜松からはスムーズに来られる。奇妙な現象だった。
販売未経験の厨房スタッフ2名が一生懸命手伝ってくれたお陰で、あたふたしながらも、なんとかお客様に対応した。
「松屋オープンきまったみたいですが、自宅待機で良いのですか?出勤できますよ!指示ください。」そんなメールが届いた。だが返せない。
福島第一原発が故障し、放射能が漏れているらしい。
そんな情報が入っていた。その状況下で、「働いて。」と即断できなかった。
だがお客様は多い。たまらず「きて」と2文字だけの返信をした。11時30分ごろ、自宅から来たとは思えない速さでAさんは来てくれた。指示が出る前に動いていたのだと言う。続いて築地にお住まいのGさん。
「もう大丈夫です。全部出来ますから。」とAさんがきっぱり言った。百人の援軍を得た気持ちだった。
西武池袋店は…。厨房スタッフさんが2名駆けつけてくれたが、お店を開店することは出来なかった。当日、お越しいただいたお客様には、この場を借りてお詫びしたい。
誠に 誠に 申し訳ございませんでした
■3月15日火曜日
松屋銀座本店は、全館が臨時休業になった。事務所で、上司と対策を練り、翌日の出勤メンバーで、電車が止まっている方には、都内での前日泊を依頼し、各方面にホテルを手配した。こんな状況下で、家族を置いて、宿泊を手配するのも、気が引けた。スタッフ全員に、出勤の意思を確認すると、次々とメールで返信が来た。
「大丈夫、出られます。」
「ちょっと歩きますが、他の駅まで行けば、行けます。」
「帰れないときに備えて、宿泊の準備もしていきます。」
このお店は愛されていると思った。
宮城の農家・大村さんの奥さんからもメールが届いた。
「畑は海水に浸かったままです。家は流されました。主人は財布も携帯も流されてしまったので、私の携帯からまた主人には連絡させます。家族は無事です。」
次の日、大村さん本人から電話。
「ぜーんぶ流されました。畑も家も。畑はまだ海水に浸かってますよ。」 そのときの状況を聞く。
「車の中でした。母を連れて逃げたけど間に合わなかったっス。車ごと浮きました。そこからは泳いだりなんだりして、まあ、助かりました。」 アメリカで農業研修して、本物の西洋野菜を日本の大地で!と大きな志を描いていた大村さん。平屋建ての、アメリカナイズされた、素敵な新築の家も、全部流された…!
「今、山形空港なんすよ。しばらく嫁の実家に行きます。当分の間、農家はできないっス。」 何も声をかけられない。
「まあ、だいじょうぶですよ。どうにでもなります。」
その言葉に、自分が励まされてしまった。
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地震の当日、浜松から新横浜に来ていた営業のNさんは、帰りの新幹線に乗る前だった。動いたのは翌朝。結局、一晩ネットカフェで過ごした。生産部の上司は、茨城の鉾田の産地に来ていた。鉾田は海沿いの町だ。地震が来て、すぐに津波を直感し、内陸に車を走らせたと言う。 みんな必死だった。
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「『まもっちゃんのレタスが銀座で売ってたよ~!』って、近くの床屋の友達に言われてね。」
昨年12月に訪ねた際、菊池さんは、嬉しそうに切り出してくれた。190cmもある大柄の農家さんだ。先だって電話したときには、無事を確認しただけだったので、少し落ち着いたかもしれない、と電話してみた。
「どうも~。ご迷惑おかけします。」少し明るい声だった。家は?畑は?と聞くと
「畑は全部潰れた~。家も半壊です。なんとか命だけはね。」 菊地さんの家には、ご両親と、お子さん二人と、弟さんが一緒に住んでいた。ご家族は?と聞くと
「弟がね。まだ連絡が取れないんだよね。」 絶句。震災から一週間以上が過ぎていた。
「自分も地元の消防団で、捜索手伝ってるんです。だから、会社のことは、今は後回しにしてます。ご迷惑おかけして申し訳ないですね。生産部長や皆さんにも宜しくお伝えください。」
しばらく涙が止まらなかった。
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3月11日14時46分を境にして、私たちの生活は一変した。それは、米、水、ガソリンに限らない。3万人に及ぶ犠牲者を経て、日本は原発依存から脱し、そう遠くない未来に、エネルギー革命も遂げるだろう。
東電ばかりを責められない。私たちは、少なからず、その豊かな電力の恩恵を享受してきた。
むしろ、放射能汚染を必死に食い止めようと、命を懸けて奮闘する、東電、自衛隊、消防庁の皆様に、エールを送らずにはいられない。と同時に、避難命令の出ている地域には、たくさんの契約農家がおり、畑も家屋も命も助かったが、この先に見据える艱難辛苦を思うと、あまりにもつらい。同地域ではすでに自殺者も出たと聞く。
支えなければいけないはずの自分は、彼らに代わる産地を探さねばならない。その仕事は、言わば、彼らを切り捨てていることを意味する。
関東一円の農家さんには、放射能の検査を依頼し、幸い、その結果は、”検出されず”か、基準値を大きく下回っている。福島の野菜も、地域によっては同様の値が、行政から発表されている。放射能という得体の知れないものに対する正しい知識を身につけ、伝え、お客様には、これまで通り、安心、美味しい りょくけん野菜を届けて行きたい。
―そしていつか。
健全な大地を取り戻し、被害に遭われた農家さんたちが復興を遂げた時。彼らの農作物をしっかりと販売できるような。そんな受け皿に自分たちがいられるように!
精一杯。今。自分の出来ることを頑張りたい。